シリーズ・脳研究への招待 第1巻「脳研究への招待」(共立出版)

ものはどうして見えるのか

藤田一郎(大阪大学大学院基礎工学研究科)

サマリー
 私たちにとって、ものを見ることはたやすく、ほとんど努力を要しない。しかし、私たちがものを見るように画像を処理できる機械は存在しない。「ものを見る」ために必要な情報処理の本質とそれを支えるメカニズムがいまだ明らかでないからである。ものはどうして見えるのか。この問いは膨大な内容を含み、その答えのほとんどは未来にある。

はじめに
 2時間におよぶせりふを語り続ける一人芝居の役者、5カ国語をあやつる通訳、オーバーヘッドシュートをするサッカー選手、「粒子の位置と速度は同時には決まらない」ことを思いつく物理学者など、すぐれた才能を持った人を見て、「いったい、彼らの頭の中身(すなわち脳)は、どうなっているんだ。」と唸ることがある。しかし、脳のもつ情報処理のすばらしさは、このような特殊な能力のみならず、私たちのふだんのなにげない行動のすべてに発揮されている。たとえば、「ものを見る」「つまづいてもころばない」というような実にたやすいことを行う際にも、脳にはとてつもない情報処理が要求されており、それを支えるメカニズムが存在する。そして、そのほとんどが未知であり、現在でも、たとえば私たちが「ものを見る」ように、さまざまな入力画像を処理し、物体を背景や他の物体から的確に分離し、そこに何があるのかを同定することのできる機械はないのである。
 「ものはどうして見えるか」という問いは、光情報がどのように生体の神経情報に変換され、外界世界の構造とその変化がどのように神経活動に符号化され、そこからいかにして世界の像が脳の中で復元され、最終的に私たちの知覚、認識、意識にいたるのかなど膨大で深淵な内容を含む問いである。このどの一つをとってみても疑問がたくさんあり、その多くはとても身近なものである。しかし、それらに対して現在の脳科学はまったく不十分な答えしか持っていない。(たとえば、まばたきをしてみる。ほんの一瞬、見ている世界は、シャッターがおりたように暗くなる。では、どうして、4,5秒に1回起きている自発的なまばたきの時には、世界が暗くなるようにかんじないのか。)
 本章では、「ものを見る」際に、脳がいかに難しい問題に直面しているかを述べ、脳がどんなトリックでこれらの問題を解いているのかという謎(答えではなく)を紹介することにしよう。


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