脳が見る、脳を見る―視覚認識の脳内過程
藤田一郎(大阪大学大学院基礎工学系および医学系)

 

1 はじめに―見ることの裏側
 皆さんはヘレン・ケラーをご存じだと思います。目が見えず、耳が聞こえない方でしたが、その充実した人生と活動により、多くの人々に影響を与えました。その彼女が、「目の見える3日間(Three days to see)」という短いエッセイを書いています。私は、中学3年生の時に英語の先生から与えられて読んだのですが、そこには、「3日間だけ目が見える日をもらえたら、何が見たいか。」ということが書かれていました。赤ちゃんのピンクの頬に生えている金色の産毛が見たい、雨上がりの空が見たい、草地に落ちる木漏れ日の輝きが見たいなど、1日目何が見たい、2日目何が見たい、3日目何が見たい、と延々と書かれています。私はそれを読み、自分を囲む世界がいかに美しい豊かなものであるかを思い知らされました(同時に、目の見えないケラー女史がどうしてそのことを知っているのかを不思議に思ったものです。)

 この素晴らしい世界を私たちが知覚できるその背景に、驚くべき脳のはたらきがあるのだというのがこの章の主題です。中学生の私は世界が美しいことに気づき感動したのですが、私がここで皆さんに伝えたいのは、「その世界を見るということがどんなに不思議で素晴らしい秘密に満ちているか」という点です。ここまでの章で、網膜に光の粒子がやってきたときにどのような現象が起きるかを学びました。しかし、これは、「ものを見る」ことの裏側で起きているできごとのほんの始まりにすぎません。私たちは、風景や人や物を何気なく眺めていますが、その際、脳が利用している網膜からの視覚情報というのは、まったく不十分な物です。脳は、この不完全な情報から物体像を復元しなくてはなりません。「一体、網膜情報のどこが不完全なのか。」「脳のいっていることのどこが素晴らしくて、何が不思議なのか。」まず、それを考えていきましょう。

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